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OdawaraPR>祭・イベント>石垣山大茶会>千利休


千利休 1522〜1591(大永2年〜天正19年)


 

本名 田中与四郎
法号 千宗易
不審庵・拗筌斎

堺の裕福な町衆、魚屋(ととや)に生まれる。

早くから茶の湯に親しみ、北向道陳、武野紹鴎に師事。南宗寺の大林宗套に参禅し、宗易の法号を得た。能阿弥系・珠光系の両茶道を併せ、利休流茶道を樹立。貴族的な茶に代わり、草庵的庶民的な侘茶を成立させた。茶禅一味の境地を望み、風流禅としての茶道は「侘び、寂び」の芸術として形成されるに至った。
はじめ織田信長に仕え、信長の没後、豊臣秀吉に仕えながら茶道を体制した。北野大茶会を取り仕切るなど、天下一の茶匠として権勢を振るった。

石垣山で利休・秀吉が大茶会を催した頃、悲劇的な出来事が利休を襲う。
秀吉は小田原攻めにあたり、まず箱根湯本にある早雲寺へ本陣を構えた。その頃小田原北條家には「山上宗二(1544〜1590(天分13年〜天正18年))」が客分として滞在していた。

山上宗二は堺の豪商 薩摩屋に生まれた。瓢庵という茶号である。利休の高弟で、織田信長に仕えた茶人であった。1582年(天正15年)10月、京都大徳寺で行われた信長の法要には、千宗易(利休)、博多屋宗寿とともに3人の主催者の中に名がのせられている。信長の没後、利休と共に堺衆茶人として秀吉の茶頭となった。

宗二は純粋に茶道を極めようとした人物である。権力に結びついた高級サロンの文化になった茶道は「茶道のための茶道ではない」と批判、自分の信念を曲げない人物であり、さらに嘘をつけない、思ったことをすぐ口にする性格だったことも手伝い、秀吉の怒りを買った。宗二は京を追われ、小田原北條家を頼り小田原へやってきて、茶道を広めたのである。

そこへ秀吉が小田原攻めを行い、利休も早雲寺へやってきた。宗二は師である利休が早雲寺にいることを聞き、懐かしさも手伝って包囲陣をくぐりぬけ、利休と再会を果たす。宗二に再会した利休は喜び、秀吉に執り成しをした。秀吉も宗二を許し、茶会がもよおされた。しかし、宗二はまたここで秀吉の機嫌を損ねる言葉を吐いてしまう。怒り狂った秀吉は「その罪に耳鼻そがせ給ひし」という残酷な刑で宗二の命を絶った。天正18年4月11日であった。

その後、石垣山城が完成、秀吉は本陣を移す際に早雲寺に火を放ち、寺宝の多くを奪い、京へ流した。

天正18年7月5日 小田原城開城。

宗二の死から10ヶ月後の天正19年2月13日、利休は秀吉の勘気を受け、堺に追放され、同年2月28日 切腹した。

千利休 辞世の句

人世七十 力園希咄 吾這宝剣祖仏共に殺す
堤ぐる我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ天に抛

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