OdawaraPR>祭・イベント>傘焼まつり>曽我物語>曽我物語7
一方五郎は捕らえられてしまいます。騒ぎが収まってから頼朝は検死を命じました。そして確かに討たれたのは工藤祐経であると確認されました。 翌日、五郎に対する調べが始まりました。五郎は父を殺された恨みによって幼い時から工藤祐経を討とうと思い続けたこと、その後頼朝の前で自害するつもりだった事を述べます。頼朝の寵臣を打つということは、武家秩序への反逆と取られます。彼らの討ち入りは死を覚悟しての行動でした。 頼朝は五郎の勇気と信念に心打たれ、助命しようとしましたが、祐経の遺児、犬郎丸が五郎を自分に引き渡してくれと願い出たため、五郎の身柄を渡しました。(一説では犬郎丸は富士の裾野にはいなかったという話もあります)五郎は斬首されてしまいました。このとき斬首をした人物はわざと刃を潰した刀で斬首をしたため、首を引きちぎり落とす結果になり、頼朝の怒りを買いました。そして逃亡しましたが、後日五郎の霊に悩まされて死亡したといわれていますが、はてさて昔のことですから・・・ 曽我五郎時致、享年20歳。 兄弟の首は母、満江御前の元へ届けられました。そして曽我の「花畑」と呼ばれる場所へ埋葬されました。後日、兄弟の叔父にあたる宇佐美禅師が富士の裾野から兄弟の遺骨を携えて曽我へやって来ました。そして兄弟が育った曽我城 大手前に庵を結びました。その庵が現在の「城前寺」です。(城の前にあったから城前寺という名)そして菩提を弔いました。 曽我兄弟の墓はあちこちにあります。そして当然城前寺にもあります。私は兄弟の遺骨があるのは城前寺であると信じています。しばらく前、花畑と呼ばれる場所から若い男性の骨が発掘されました。その際に鑑定も行われましたが、曽我兄弟の骨にほぼ間違いなしとの結果が出ています。その後、城前寺の境内の墓に埋葬されました。現在もその地で十郎・五郎は眠っています・・・。 |
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