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 OdawaraPR>祭・イベント>傘焼まつり>曽我物語>曽我のみどころ>吉田忠左衛門兼亮


吉田忠左衛門兼亮


 寛永17年(1640)生。

 浅野家譜代の家臣。同志の副頭領格。討ち入り時、堀部弥兵衛につぐ第二の高齢者だった。

 刃傷ざたが起こったとき、大石内蔵助のよき相談相手であり、翌年には江戸に行き堀部弥兵衛ら急進派の説得を頼まれ、寺坂吉右衛門(討ち入り後隊から離れるよう命じられた人物)を従い、江戸の同志の話や吉良家の内情を聞く。山科会議にて決行は内匠頭の三回忌まで待つことに決し、この上方同志の決論を持って、忠左衛門は近松勘六とともに江戸に下った。

 江戸にて忠左衛門は上方の意向を伝え、江戸の浪士たちに自重を促した。その後浅野大学へ処分が申し渡され、忠左衛門はただちに内蔵助に知らせた。新麹町6丁目に一戸を借り受け、田口一真と名乗り、作州浪人兵法指南の看板を掲げながら、吉良方の偵察、同志間の連絡にあたった。また、訓令や覚え書き、同志の誓詞神文の前書きなどを書いた。

 兜の錏(兜・頭巾の左右・後方に下げ、首筋を覆う部分)の裏へ辞世の句をしたため討ち入りし、大石主税の後見を勤める。本懐を遂げ泉岳寺へ引き揚げる途中、富森助右衛門とともに大目付仙石伯耆守邸へ赴き、自訴、事の顛末をしたためた口上書きを提出し、幕府の裁きを待った。その文章は忠左衛門が草したものである。

 戒名、刃仲光劔信士。享年六十四歳。

 辞世の句 君がため思ぞつもる白雪を 散らすは今朝の嶺の松風


関連の人々1 吉田沢右衛門兼定

 延宝3年(1675)生。

 忠左衛門の嫡子。父子討ち入り組の一人。浅野内匠頭の刃傷事件が起こったときは、まだ家督相続をしておらず、部屋住みだった。

 赤穂開城後は、父忠左衛門とともに播州三木に移った。父が大石内蔵助に呼ばれ、江戸急進派の説得のために東下したのちも、三木のいた浪宅にあり、時節がくるのを待っていた。一挙断行を決定した円山会議ののち、沢右衛門は間瀬孫九郎、不破数右衛門とともに京都を立ち、父の仮寓に同居、田口左平太と変名して、吉良方の偵察と同志の間の連絡にあたった。

 戒名、刃当掛劔信士。享年二十九歳。


関連の人々2 寺坂吉右衛門

 八歳より忠左衛門に仕えた。

 討ち入り時の年齢は三十八歳。最後まで主人と共にありたかったであろうが、浅野の直臣ではなかったため説得され一行を離れた。その後、播磨の国にいた忠左衛門の妻りんの下へ行き事の次第を報告し、忠左衛門の娘の嫁ぎ先の伊藤家(姫路藩主に仕えていた家)にりんと共に身を寄せる。やがてりんが亡くなり吉右衛門は江戸で仕官、一七四七年十月、八十三年の生涯を閉じる。

 のちに伊藤家では、過去帳に吉右衛門の名前を載せ、命日には回向をかかさず家族同様に扱った。

 吉右衛門は妻センと同じ寺に葬られたが、後に赤穂藩家臣、野山が、浅野の菩提寺・花岳寺に吉右衛門の墓がないことを遺憾とし、墓を花岳寺に建てた。また、明治に木村という人物が四十六士の墓のある品川泉岳寺にも吉右衛門の墓を建てた。法号は遂道退身信士。「道を遂げ身を退いた」という意味である。

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