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OdawaraPR>e.t.c>小田原ゆかりの文学者 


小田原ゆかりの文学者


小田原に縁のある文学者は結構大勢います。その一部の方をご紹介いたします。

牧野信一(1896〜1936)

小田原生まれの作家で、早稲田大学卒業後新進作家として活躍しました。『村のストア派』『吊籠と日光などの作品を発表しましたが、様々な悩みのため神経衰弱に陥っってしまいました。そして昭和11年、39歳で縊死自殺を遂げてしまいました。

関連の史跡:小田原市城山の小峰排水地(城山公園)東側に文学碑  ←こちらは城山公園地図です


北原白秋(1885-1942)

柳川市の生まれの詩人、歌人です。1904年、早稲田大学・英文科予科に入学し、その翌年「文庫」にて詩壇デビューをはたします。与謝野鉄幹らが主宰する「明星」を経て、「パンの会」を設立します。大正7年、小田原市にある樹高山 伝肇寺に移り住みました。恋人と一緒だったらしいですよ(その辺はまだちゃんと調べていないのでそのうちに・・・)。寺の竹林に茅葺の「木兎の家」や洋館を建てましたが、関東大震災で倒壊してしまいました。(ああ、もったいない・・・)この場所で小田原地方の風物を折り込んだ作品を数多く 作り、新しい童謡は芸術童謡と評価されました。
現在の伝肇寺には幼稚園があり、その名は「みみずく幼稚園」といいます。

関連の史跡:小田原市城山 伝肇寺に文学碑 


井上康文(1897-1973)

小田原生まれの詩人です。19歳のとき福田正夫と出会い、1918年の『民衆』の創立に参加しました。「民衆派」と呼ばれるこの詩人グループは、大正デモクラシーの思想と呼応するように誕生し、口語自由詩で民衆の現実を描こうとしました。民衆派詩人の語り部 と自ら語りながら、叙情派的な詩に優れたものを残しました。

関連の史跡:小田原市城山の小峰排水地(城山公園)北側に詩碑 ←こちらは城山公園地図です


尾崎一雄(1899-1983)

三重県生れの小説家です。志賀直哉に師事し、高等学院在籍中「学友会雑誌」に作品を発表、国文科に進み同人誌「主潮」を創刊しました。昭和12年(1937)『暢気眼鏡』で、芥川賞受賞しました。戦後、尾崎士郎らと「風報」を創刊、『虫のいろいろ』『もぐら横丁』『まぼろしの記(野間文芸賞)』『あの日この日』で読売文学賞受賞しました。芸術院会員でもあります。
昭和53年(1978)文化勲章も受賞しています。
病を患った尾崎は故郷の下曽我で闘病生活を送るが、それ以降の作品には、今までにはなかった虫や草などの自然に目を向けた作品が多く見られるようになります。病床で見る事ができるものが虫や草だったのでしょうね。
祖父の代まで神官を努めた小田原市曽我の宗我神社入口にある尾崎一雄文学碑には、『虫のいろいろ』の一節が刻まれています。

関連の史跡:小田原市曽我 宗我神社・文学碑・墓  ←こちらは宗我神社。ここへ行く途中鳥居の右側に文学碑があります。


福田正夫(1893-1952)

教員をしながら処女作『農民の言葉』を出版しました。1918年、福田24歳の時、井上康文・加藤一夫ら小田原在住の同人たちと雑誌『民衆』を創刊しました。その新鮮な題材は注目されましたが、デモク ラシーの風潮の交代と相前後するように、同紙は3年後廃刊になってしまいます。その後何度も詩誌を主宰、文学志望の後輩を育て、彼の人柄を慕って多くの詩人が福田家に出入りしたそうです。

「われらは郷土から生まれる われらは大地から生まれる われらは民衆の一人である」
民衆碑には『民衆』創刊号を飾った福田正夫の巻頭の辞が刻 まれています。

関連の史跡:小田原市城山の小峰配水池(城山公園)北側に民衆碑 ←こちらは城山公園地図です


川崎長太郎(1901-1985)

小田原生まれです。実家は箱根温泉の旅館相手の魚商でした。10代後半から社会派の詩を書き始め、やがて民衆詩人、福田正夫と知り合い、詩誌『民衆』に参加します。その後、詩誌『赤と黒』を創刊します。徳田秋声の勧めで小説を書くようになりましたがなかなか売れず、食い詰めて帰郷・上京をくり返しました。37歳のとき、小田原の実家の物置小屋に住みつき、60過ぎまで書き続けました。物置小屋の作家と呼ばれました。戦後になってやっと作家としての収入を得るようになります。彼が書き続けたのは、小田原の色町である抹香町ものでした。70年代、若者たちの間で川崎ブームがやってきました。彼は61歳のとき、33 歳の後家さんと結婚、旅館の間借り生活を始めます。そして、妻に面倒を見てもらいながら、83歳で没するまで書き続けました。
24年間住んだ物置小屋は今はなく(ああ、もったいないもったいない)、西湘バイパスを車が行き交うばかりです。
小田原の某書店で川崎長太郎の小説を探したのですが見つからず(なんでやねん)横浜そごうの書店で購入しました(笑)読んだんですが・・・・う〜んなんて言っていいのやら・・・。とりあえず私は苦手かもしれない・・・。


北村透谷(1868-1894)

小田原出身。明治16年東京専門学校政治科に入学、自由民権運動の中に身をおきますが挫折、苦悩と模索の中で自由律叙事詩風の『楚囚之詩』を自費出版します。しかし、自信を喪失し破棄、その後、評論活動を行い、26年には島崎藤村らと「文学界」を創刊しますが、明治26年12月28日、自殺をはかります。翌、明治27年5月16日「我が事終れり」と縊死自殺をしました。透谷院無門章賢居士。

関連の史跡:小田原市高長寺に北村家の墓 


 文学者たちの縁の品々を展示:小田原文学館

「小田原出身の文学者と小田原ゆかりの文学者」を紹介している文学館の白い洋館は昭和12年に元宮内大臣田中光顕伯爵が建てた別邸です。南欧風の建物で、瓦はスペインから輸入したものらしいです。庭園も美しいので建物をみるだけでも結構楽しめるかも?
明治から昭和にあけて活躍した小田原出身の文学者は、北村秀谷、北原武夫、尾崎一雄、川崎長太郎他ゆかりの文学者で、この西小路に住んだ作家は岸田国史、北原白秋、坂口安吾、田崎潤一郎、三好達治など。(結構知っている人物がいるでしょう?小田原は温暖な土地だったので著名人や文化人、政財界人が別宅をもったり住んでたりしていたんですよ〜。)草稿をはじめ、多くの直筆原稿が展示されています。

白秋童謡館(小田原文学館別館)

初版本や直筆原稿、作品集、マザーグースのコーナーなどを展示しています。
こちらの建物は本館と同様、田中伯爵が建てた別館です。この建物を建てたころ小田原には北原白秋が在住していました。大正モダン調の建物です。

田中光顕伯爵とは

幕末に土佐で生まれ、幕府軍と戦い、明治維新後は政府へ出仕。海外視察のため欧米諸国をまわり、帰国後陸軍省へ入ります。宮内大臣として明治天皇に仕えました。その後伯爵になり、引退しました。
欧米諸国をまわった経験からか、国が西洋化を推進していたからなのかはわかりませんが、本館の建物が南欧風というのもなんとなく納得してしまったりするのは私だけでしょうか???

地図はこちら→

小田原市南町2−3−4 9時〜17時 休館日:年末年始 入館料:大人250円・小中学生100円
小田原駅東口から徒歩20分または箱根方面行きバス箱根口下車5分

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