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石垣山の歴史


場所 小田原市早川字梅ヶ窪
面積 約5.2h
国指定史跡 昭和34年5月13日指定
石垣山は、もとは別の名で呼ばれていました。では何故石垣山という名になったか?それは天正18年(1590)に豊臣秀吉がこの場所に総石垣の城を築いたため、石垣山と呼ばれるようになったのです。(2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」では最初っから秀吉が「石垣山に城を築くんじゃあ」と言ってましたが(爆笑))

豊臣秀吉は1599年4月、諸大名に関白(秀吉)への忠誠を誓わせましたが、北條氏は出仕しませんでした。その上10月には秀吉の沼田領裁定を破り、真田領の名胡桃城を奪います。それをきっかけに秀吉が北條氏へ宣戦布告!北條氏は籠城準備を始めました。

小田原城は天下の名城として知られ、上杉謙信勢(九万六千)や武田信玄勢(二万五千)にも落とす事が出来ませんでした。後に秀吉は大阪に同様な総構えの城を築いていることからも北條時代の小田原城がいかに難攻不落だったかがうかがえます。かなり大規模(今では見るかげもありませんが)だったので、北條氏も籠城作戦を取ったのでしょう。

翌年の3月、秀吉は小田原へ向かい、諸大名もこれに従いました。4月6日に湯本早雲寺に本陣を敷きます。(当たり前といえば当たり前ですが、1ヶ月くらいかかってますね。やはり大阪―小田原は遠いなぁ)そして小田原攻めにかかるわけですが、難攻不落の小田原城、秀吉は心理作戦を取ることにしました。その方法とは「小田原城から見える笠懸山城を築くこと」でした。しかし、普通に建てたのでは心理作戦になりません。そこで笠懸山の山頂にあった林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけました。そして出来上がったと同時に周囲の樹木を伐採したわけです。

籠城中だった小田原城の将兵はさぞびっくりしたでしょうねぇ、一夜にして城が建ったように見えるんですから。驚き士気を失うのも当然。秀吉はそんなことも出来るような力を持つ人物なのかと思ってしまった人もいたようです。そして小田原評定(故事:長引いて結論の出ない相談のこと。北條氏直が臣下を集めて和議か討って出るかの評定をしたが、論議が長引き決着しないまま滅亡してしまったことから出たことわざです・・・。)の結果降伏したわけですが、これ以来この山は「太閤一夜城」、「石垣山一夜城」などと呼ばれることになりました。本当は延べ約4万人、日数にして80日あまりが費やされてたんですけどね。

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城だそうです。石積みは近江の穴太衆による野面積、長期戦に備えた本格的な城構えであったと伝えられ、現在でも当時の面影が大変よく残されているとのことですが、そうかなぁ・・・(本音)ちょっと整備しすぎな部分もあると思いますが。

城郭は地形に応じて東西に長く南北に短い長方形。天守台、本丸と、その周囲の帯曲輪、西曲輪、南曲輪、馬屋曲輪、井戸曲輪があり、現在はその石垣の一部や井戸曲輪跡のさざえの井戸などが残っています。歴史公園として整備され、国立公園区域及び国指定史跡にも指定、一般に公開されています。

石垣山から見た小田原城方面。
モヤっていて小田原城がよくわかりませんねえ・・・。
石垣がわかりますか??

余談

ここは夜中になるといわゆる「心霊スポットめぐり」の若者が出没した場所でもあります。自称「霊感が強い」元同僚に言わせると「落ち武者の霊を見たことがある」そうです。またどこかで「ここで落ち武者に肩をつかまれた」というのを読んだことがあります。しかし、ここでは戦はなかったと思うので(だって心理作戦だもん)ガセだと思われます。ただ、山の上という場所と、夜行くための場所ではないので林の中が足元がまったく見えないほど暗かったので、そういう意味で怖いです。
それとも別の戦(石橋山合戦の頃のとか)の落ち武者なんでしょうか?謎です。

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